SAFULL+日経ビジネス

高齢者に使いやすさと安心を提供するガスコンロ

官と民が思いをつないで開発|認知症当事者のモニタリングを重ねて製品化

2040年、軽度認知障害(MCI)を含めた認知機能に問題を抱える人が1000万人を超える――※1
認知症当事者が自分らしく暮らすための環境整備は急務。そんななか、2024年2月リンナイ(本社・名古屋市)が高齢者や認知症に配慮したガスコンロ「SAFULL+(セイフルプラス)」を発売した。本製品は官民一体で開発に取り組み、「当事者参画型開発」の先行事例としても注目される。誕生の経緯、そして込められた思いを探る。

厚生労働省の研究班が、2040年には65歳以上の高齢者のうち認知症の患者数が584万人、MCIは612万人に達するとの推計を発表した※1。認知症患者数増加に対する環境整備が社会的な課題となるなか、福岡市、西部ガス(本社・福岡市)、リンナイ(本社・名古屋市)、そして認知症当事者に向けたデザインなどの知見を持つメディヴァ(本社・東京都)が共同で、高齢者や認知症当事者が安心して調理を楽しめるガスコンロを開発した。認知症当事者が開発に参加し、その声を取り入れた製品として注目を集めたこの製品は、発売を発表するや、高齢者やその家族からの問い合わせや期待の声が相次いでいる。

※1 厚生労働省2024年5月8日発表「認知症および軽度認知障害(MCI)の高齢者数と有病率の将来推計」
以下、登場する方の所属・役職等はすべて2024年11月当時のものです。

来るべき時代に
いち早く対応

福岡市、西部ガス(本社・福岡市)、リンナイ(本社・名古屋市)、認知症当事者に知見を持つメディヴァ(本社・東京都)が共同で本製品を開発した
  • 西部ガス 佐世保
    お客さま保安部長
    河野 雄彦氏

  • 福岡市 福祉局
    ユマニチュード推進部
    認知症支援課・主査
    住田 篤氏

  • リンナイ 九州支社
    リビング営業室 参事
    伊集院 章氏

河野ある認知症に関するフォーラムに参加したのですが、登壇された認知症当事者の方から「今後もガスの炎で大好きな料理を作りたい」との話を聞きしました。また、福岡市が主催する認知症に関する勉強会でも「今後、国民の1割が認知症になる」との説明も聞いており、今から当事者も使える製品を開発しないと手遅れになると感じました。

住田福岡市では、認知症の人や高齢者が使いやすい製品やサービスを増やすことで、自分らしく今までの生活を続けることができると考え、「福岡オレンジパートナーズ」を設立、民間と協力した製品開発などの取り組みを始めたところでした。これまでは行政が補助金や支援を続けてきましたが、国民の1割が認知症になる時代が来ると、それではもう対応できなくなります。

民間の企業とも手を取り合って、認知症の方や高齢者が使いやすい製品やサービスを開発し、それらが世の中に溢れれば、認知症になったとしても自分らしく、なにかを諦めることなく今までの生活を続けることができます。

河野認知症は発症後の記憶が残りにくく、ガスコンロを使い慣れた当事者がIHに変えても、使えずに元に戻したという話を聞きます。ガスコンロであれば元々の記憶に残っているので使えますし、ランプの大きさで熱量が変わることを認識するIHと違い、直感的に炎の大きさで調整できる点も認知症との親和性が高い。にもかかわらず「炎は危ない」とされ「ガスで料理したい」との本人の思いとは別でガス離れが進む状況に危機感を抱き、リンナイの伊集院さんに相談しました。

伊集院福岡市の現状や認知症の全国的な増加傾向を聞いて、他人事ではないと感じました。自分の母親も認知症が進んでいて、火の消し忘れを頻発するようになっていました。

そのことを地域包括支援センターなどに相談すると、IHを勧められる事が多い。後世のために、ガスコンロからIHコンロに切り替えが進む状況を食い止めなければならないという使命感もあり、「安全で使いやすいガスコンロ」の開発を会社に上申しました。

加藤今回のように支社から要望があって開発を進めるのは異例なのですが、これから高齢化社会が進むなかで、ガスコンロの減少が危惧されるという説明が社内を動かしました。

伊集院「高齢化という社会課題があるし、リンナイにとっても大事なことなので、社会貢献も含めて製品化を検討すべき」というトップからの声もあってとんとん拍子で進みました。

認知症当事者の「活躍」をサポートする福岡市

福岡市では、認知症の人の「支援」から「活躍」へのステップアップを図る新たなチャレンジとして、2021年に「福岡オレンジパートナーズ」を設立。認知症の人とその家族、企業・団体、医療・介護・福祉事業者、行政で構成し、認知症の人が「自分らしく」暮らすことを目指している。福岡市の取り組みは「2024グッドデザイン・ベスト100」にも選出された。

拠点施設「福岡市認知症フレンドリーセンター」ではARゴーグルも体験できる

官民一体で共同開発

GOAL 誰もが使いやすいガスコンロ

認知症当事者の声を
開発に生かす

伊集院氏の熱い思いが社内を動かし、異例となる営業拠点発の製品開発がスタートした。その過程では、「福岡オレンジパートナーズ」の協力のもと、認知症当事者の声を聞くモニタリングを4回実施。当事者が試作機などを使用する際の目線や動作を確認し、改良を重ねた。

  • リンナイ 開発本部
    第二商品開発部 厨房機器設計室 課長
    加藤 定基氏

  • リンナイ 開発本部
    デザイン室 課長
    山田 勇雄氏

  • ごとくの形、配色、文字の配置など、モニタリングで得た様々な情報をデザインに生かすため、山田氏が書き留めたノート

伊集院我々リンナイは、これまでもの製品を通じてユニバーサルデザインについての知見は得ていました。ですが、認知症に関するデザインの知見はない。そこで、福岡市さんにご相談し、メディヴァさんに参画いただくことになりました。

山田モニタリングの場で福岡市の笠井さんから「当事者の行動だけではなく、何を考えているかを見てほしい」とご指導いただきました。モニタリングが進むにつれて、その意義が次第に見えてきました。例えば、当初モニタリングに使用したガスコンロのグリルのスイッチ部分には魚マークがついていました。

ユニバーサルデザインの考えでは、「これは魚を焼くグリルのボタンだ」とわかりやすい。しかし認知症の人にとっては、この魚のマークが製品全体の中で強い印象を与えるため「コンロの火をつけてください」と伝えても、魚マークを押してしまいます。

行動や視線、悩んでいる姿というのは、我々でもすぐにわかるのですが、「何を思っているか」ということがこの商品の根幹だと気づきました。モニタリングで気づいたことをメモ4、5ページになるぐらい、書き留めました。

木内認知症の人は情報の選択が苦手で、1番目立つものを選んでしまう。我々も情報をできるだけ分かりやすく提示することが重要だということを、知見としては持っていましたが、実際にモニタリングを行うことで、「それはなぜか」がわかりました。

また、認知症の人は相手に配慮して、こちらが望んでいることを言う傾向がありますが、実際の行動を見ることで、本当の課題が理解でき、開発のプロセスが前に進みました。

住田モニタリングを行うと、リンナイさんからすぐに「こう改良します」という案が送られてきたので、「こんなに短期間で変わるのか」とメンバー全員で驚きました(笑)

加藤モニタリングを行うと、その場で「次はこうしよう」というところまでの気づきがあります。その場で当事者の方々の様子などを見て、さらに木内さんや皆さんから「ここはこうした方がいい」という意見をいただける。モニタリングの場で、ある程度の答えは出ていて、それを具現化するという形でした。

改良を重ねて誕生した「セイフルプラス」

最新モデル「セイフルプラス」は、モニタリングを通して様々な改良が加えられた。その一つがカラーリング。点火、消火という基本操作で迷わないよう、右コンロの点火スイッチをオレンジ、左コンロの点火スイッチを緑という認知症当事者でも区別しやすい配色にした。

2020年発売の「セイフル」
2024年発売の「セイフルプラス」

ごとくは、安定と置きやすさを重視し、一般的な製品より大きい四角形を採用、白い天板と識別できるよう黒にしている。バーナー周りの部品を黒色に統一したことに加え、ごとくの枠が背景を遮ることで、弱火でも炎が認識しやすくした。音声も「点火しません」ではなく「火がつきません」といったわかりやすい口語表現を採用し、ゆっくりとした口調にして聞き取りやすさにこだわっている。

右コンロの点火スイッチをオレンジ、グリルはグレーに
バーナー周りの部品を黒色に統一
SAFULL+の特長
安心・安全 利便性・操作の分かりやすさ
  • ◎ 大型ごとく
  • ◎ コンロ・グリル使用時間お知らせ
  • ◎ 左右標準バーナー
  • ◎ ハンドル式グリル扉
  • ◯ 鍋なし検知機能
  • ◯ 消し忘れ消火機能
  • ◎ 分かりやすい配色
  • ◎ 点火確認LED搭載
  • 音声ガイダンス (高齢者が聞き取りやすい音声)
  • 湯わかし機能 (温度調節機能廃止)
  • ◎ グリル下火カバー廃止

※取り外して掃除できることより、着脱部品を減らすことを優先

赤字が前モデルからの改良点

開発スタッフはARデバイスを用いて、認知症当事者がどのように見えているかの疑似体験も行った。

  • メディヴァ コンサルティング事業部
    グループリーダー
    木内 大介氏

  • 福岡市 福祉局
    ユマニチュード推進部 部長
    笠井 浩一氏

木内私も含めて開発スタッフは、認知症の人の世界を体験していません。自分自身が擬似体験すると、当事者の迷いや悩みが理解しやすくなります。使う人の身になるという意味で、製品の開発にも効果的だと思いました。

加藤認知症の人は視界が狭くなり、距離感もつかみにくくなります。まず点火ボタンが押せないのです。また鍋を置こうとしても真ん中に置けない。

山田あいまいな配色だと立体物という情報がなくなるという気づきもありました。そのため、例えば白黒など、色のコントラストをはっきりさせる。ユニバーサルデザインにプラスしてコグニティブデザイン※2を取り入れながら改良に取り組みました。

加藤目指したのは、「安全が担保された上で、火をつけ、消せる」というシンプルなものです。「セイフルプラス」は「タイマー」やお湯が沸いたら自動的に火が消える「湯わかしボタン」など、「消し忘れに関係した機能」に絞りました。

笠井最新機種なら色々な機能を盛り込みたくなりますよね。それがこの製品は本当に必要な機能しかついていない。様々な企業とお話する中でも、業界のトップランナーが思い切って機能を削ぎ落とした点に驚かれます。

伊集院最初の会議で、木内さんから「シンプルで、誰でも簡単に使いやすいものを」というアドバイスをいただきました。

木内「火をつけること」と「火を消すこと」ができれば、コンロは使えます。シンプルな機能を安全に確実にすることがポイントだと思いました。

認知症当事者のモニタリングとARを使った疑似体験

2方向のアプローチで開発の精度を高める

実際の行動を見て、当事者の真の悩み事を知る

製品の開発期間は、2022年7月から約1年半。その間モニタリングが4回行われた。メディヴァの木内氏は「私たちが勝手に想像したり、認知症の人に質問に答えてもらうだけでは気づけなかったことが、実際の環境で試してもらい、会話や観察を通して本当の課題が何かを理解することができました。」と語る。

また福岡市の笠井氏は当事者が参加したモニタリングについて「自分に役割がある、必要とされているということは、認知症の人にとって大変励みになり、自己肯定感に繋がったと思います」と別の効果があったと評価する。

試作機の説明をする様子
重要なポイントの1つ「カラーリング」は様々なパターンを検討
検討ポイントがぎっしりと書かれたシート
実際に試作機を用いて調理も行われた

距離感や色の見分けの難しさを知る

認知症を発症すると、「距離感がつかめない」「色を識別しにくくなる」といった視覚的困難が生じる。メディヴァが慶應義塾大学大学院メディアデザイン研究科と共同開発したARデバイス「Dementia Eyes」は、認知症の視覚症状をシミュレートするもので、ゴーグルをつけて体感できる。

開発スタッフも、ガスコンロの操作、色の見え方などを確認した「Dementia Eyes」は、空間・環境のデザイン、そして周囲の人の対応の両面の気づきを与えてくれます。認知症の人の視点を体験できるので、使う人の身になるという意味では、製品の開発にも効果的だと実感しました」(木内氏)

距離感がつかめず、コンロを触るのも一苦労する
ARの見え方
通常の見え方

認知症を発症すると、色のコントラストがはっきりしなくなる。体験したことで、開発スタッフは配色の重要性を認識した

「セイフルプラス」
開発の大きい意義

木内認知症の人をエンドユーザー、つまり「顧客」として見はじめていることは大きな転機だと思います。 製品開発のプロセスでは、実際のエンドユーザーの話を聞くが当たり前ですよね。今回は、通常の開発プロセスと同じように、ユーザーである認知症当事者が関わっています。当事者が参加することで、開発する側が想像するのとは違う視点、つまり当事者の視点を理解することができました。

笠井認知症の人はあくまでも今の我々、高齢者の延長線上にいるだけであって、特別視しないということです。

認知症当事者のモニタリングから製品開発を進めていった当時を振り返る

住田今回、モニタリングに参加していただいた当事者のみなさんに製品が発売されたことをお伝えしたところ、大変喜ばれて。自分が関わったものが実際に製品として世に出ること、そして自分らしく料理をし続けられる世の中が1歩近づいたと。「セイフルプラス」が注目を集め、その後オレンジパートナーズでは、認知症当事者が参加した製品が色々と開発されています。

笠井これから少子高齢化が進み、認知症の人たちが増えていく中で、その人たちの能力も間違いなく必要になってきます。福祉でお金の話は敬遠される傾向がありますが「稼ぐこと」と「使うこと」で社会が成り立っている部分は否めません。その時に、認知症の人たちが使い続けることができる製品があれば、その人たちは「顧客」であり続けることができます。西部ガスさん、リンナイさんが認知症の人たちも「顧客」であるといち早く気づいて、一緒に製品を作り、販売に至ったことに感動しています。

ARアプリを通して、ゴーグルから認知症の視野体験をする様子

福岡市が目指しているのは、認知症になっても慣れた地域で自分らしく暮らしていけること。認知症に関する施策は「支援する」という文脈が強くなりますが、当事者からは「自分でできることは取り上げてほしくない」という話をよく聞きます。そのためには認知症になっても使い続けることができる製品が不可欠です。「こういう社会にしていきたい」という企業の皆さんの熱意と、認知症の当事者の皆さんの思いが、きちんと噛み合った製品開発の好例だと思います(日経ビジネス)。